包摂主義
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包摂主義(ほうせつしゅぎ、英: inclusionism)は、ウィキペディアへ記載するに値するか疑わしい記事への対処は、削除よりも加筆修正して存続させるほうが妥当であるとする思想、立場。対立する概念として、削除主義(英: deletionism)や排他主義(英: exclusionism)などがある。
包摂主義者が主張する包摂主義の合理性
edit包摂主義者が主張する包摂主義の合理性としては以下のようなものがある。
- 対象とするウィキペディアのそもそもの位置づけ
- 「ウィキは紙ではない(Wiki is not paper)」
ウィキペディアは紙の百科事典ではない。
ウィキペディアは全人類の英知を体系化し共有するという一大プロジェクトである。すべての人がその共同作業に参加し、貢献することができる。これはインターネットという新しい技術により、我々がやっと手にすることができた絶大なる価値があるプロジェクトである。
紙の百科事典のフォーマットはウィキペディアが内包する一部分として継承しながらも、その古い百科事典の枠組みにとらわれる意味はない。そもそも紙の百科事典自体が人類の英知の体系化を目指していたものであったが、それは現実的、技術的な理由により不十分な作業であった。そのような「失敗している」作業を過度に振り返ることによって、このすばらしいプロジェクトの価値が損なわれることは絶対にあってはならない。ウィキペディアはブリタニカ百科事典の劣化コピーであってはならない。
いままでの紙という物質の制約から解き放たれているので、私たちがウィキペディアで取り上げることのできる項目の分量には、事実上の制限がない。検証可能性、中立的立場などの根本原理が満たされれば、どんどん情報を追加していくべきである。掲載される情報量は増えていくのが自然であり、網羅する情報量の増大は善であると考えている。
誰からも信頼されうる記事の質を担保する、記事内容の体系化についてであるが、削除主義者が安易に情報を削ることにより体系化作業を行いやすくすることに対して、包摂主義者は削ることよりも内容を吟味し体系化する努力をすることを編集者に要求するという、より追加された情報を生かすことに積極的な立場である。
例えば、ある記事が良質な記述と標準以下の記述を含んでいる場合、すでにある良質な記述に加えて、標準以下の部分は標準レベルに到達するように、他のウィキペディアンが後々改稿してくれるよう要請する(たとえば、書きかけの記事なので執筆者を募っている旨を明示するタグを貼る)。
個別の記事の分量の長さはデータ量、可読性による現実的な制限があり、これは体系化作業のひとつとして情報を追加する編集者が、おのおの自発的に分割して行けばよい。その過程でWebの特性であるリンクも最大限活用する。
また、記事が多くなりすぎることで機能が低下する懸念が無いという指摘もなされている[1]。
ウィキペディアの記載基準は、検証可能性、中立的立場の原則を満たしていれば、厳しすぎる枠組みをはめるのは避ける。それほど特筆すべきところのない人物や場所、概念に関する記事も許容されるべきである。
包摂主義者の中には地球上のあらゆる人物、あらゆる事象に関してウィキペディアに記事が存在しても良いとまで考える人もいる。
「1995年にデビッド・レターマン・ショーに出演したテニス選手の一覧」というような特殊な記事さえも考慮の範囲になる。
包摂主義は長期展望主義(英:Eventualism)および法律の推定無罪に同調する立場である。ただしこれは編集方針の検証可能性が担保される範囲においてである。
包摂主義者による削除主義者その他への批判
edit包摂主義者による削除主義者その他への批判は、以下のようなものがある。
削除主義者にはビジョンがない。ウィキペディアは紙の百科事典ではないという理解が乏しく、このプロジェクトの真の価値をまったく理解しておらず、ブリタニカ百科事典の劣化コピーを作れば満足であると思っている人たちである。この価値あるプロジェクトを台無しにしようとしている妨害者である。
削除主義者がコンテンツの記載基準として重視する情報価値(notability)の概念は客観的なものではない。そのような概念に依拠して記事の削除・存続を決定するのは正当化されない。知の体系を網羅するというプロジェクトの本来の目的においても、そのような恣意的な取捨選択をする行動が極力抑制されるべきなのは当然である。
「情報の増大=非体系化」という根本的な勘違いをしている。情報の増大と体系化は独立した概念であり、これはウィキペディアプロジェクトにおいて両方同時にされるべき作業である。情報の削減をもって体系化作業と安易にするべきではない。
情報を削る事でクオリティがあがる、という削除、修正削除主義は短絡的で、間違いであると考えられる。
単独記事の「乱立」だが、紙の物理媒体ならば、物体が肥大する、ページめくるのに時間がかかる、その間に視界に飛び込んでくる余剰な情報が増える、などのデメリットがある。
しかし、閲覧者がGoogleなどの検索サイトの検索結果からジャンプしてくるケースが多い為、そのような問題は非常に少ないと考えられる。
つまり一部のプロジェクト理解が浅い利用者が喧伝するような「ゴミ記事」は目に入りづらい構造になっており、特筆性が付加されれば、自ずと記事を読みやすい状態となる為、将来、特筆性を持つ可能性を秘めた記事として、存続させる意味を持ってくると考えられる。Wikipediaは紙ではない。
記事内での肥大化だが、情報が過剰になれば、その情報列挙部分にせよ、部分内容のフォーカスにしろ、別記事として分離すれば良いと考えられる。これは通常の記事の成長過程として方針にも明記され解説されている。
もしくは、非表示モードで折たたむ事も出来、詳細に興味がない場合は、情報量をそのまま可読性を損う事無く体系化を進める事が可能な構造になっていると考えられる。
ウィキペディアでは非伝統的、非学術的で些細な記事も多く容認されていることからも、百科事典コンテンツに関してより厳しい基準を掲げる人々と包摂主義者はしばし相容れない関係にあり、包摂主義者はかような人々を「学術的基準病」(Academic Standards Disease)に冒されていると考えている。
修正削除主義なるものへの批判
edit一部の利用者は修正削除主義なるものを標榜しているが、本質的にはなんら削除主義と変わることはない。
『包摂主義への批判』なるものについての批判
>削除主義の「継承的側面」の強権的な立場
実際の運用においては、このような(Wikipedia:削除依頼/佐々木健介)独善的な理由を吐き捨てて管理者独断で「対処」するのみであり、その後、有志によって二年の歳月を経て復帰依頼され復帰させられるというWikipedia:削除依頼/北斗晶ほか、その独善的思想主張、行為により、コミュニティ、プロジェクトへの疲弊を発生させているだけ。
「集団愚」[2]という単純多数決の結果を回避するのは、数の力の多数決意志決定ではなく、コミュニティの少数意見を重視しながら十分な議論の結果のコンセンサスを得るのが大前提。
修正だろうが削除主義だろうが、コミュニティの議論を軽視し、その思想の管理者が独善で強権的対処を押しつけて、それを良しとすることからもこの主義主張の異常さが垣間見える。
>記事を作成するのみで十分な記述がなく、衛星記事として作られたものでもないとなれば、これは屁のこき逃げに似ている。記事を立てる以上、執筆者は記事に対して、執筆能力に応じて一定の責任をもつべきである。すかし屁を公衆の面前で放ってしまったら、その場から立ち去らずに、自らが震源地であることを受容すべきである。同様に、立てた記事に対し、他人任せの姿勢を容認していては、スタブが林立するのみならず、当該ウィキペディアンの成長も望めない。
これはプロジェクトの不特定多数による非同期的な編集というウィキペディアの原則、理念に反するもの。だいたい、記事の存続削除基準と、それぞれの多様な利用者の参加姿勢、あるいは各利用者への対処、あるいは各執筆者の成長は別次元の話であり、そんなものを混同して論じている時点で論外。
留意点
edit多くのウィキペディアンは完全な包摂主義者でも削除主義者でもないので、派閥主義(英: factionalism)的な物の見方に捕われる危険性には注意すべきである。